また、9月の彼岸がやってくる

また、9月の彼岸がやってくる

令和元年9月1日(日)

 

また一年で二回訪れる彼岸の日が、九月二十三日に訪れます。二十日に彼岸の入りで二十三日がお中日、そして二十六日が彼岸明け。7日間を彼岸という。

 

仏教では彼岸とは、仏道に精進して煩悩を脱し、涅槃に達した境地をいう。俗に、お中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日1つずつ修める日とされている。儒教の用語では、煩悩は、なくすとか滅するという意味で「断滅」という使い方をしていたものが、仏教でも使われるようになった様である。

 

しかしながら、俗世にいる者にとって、煩悩は断滅できるものではない。生きているかぎり、煩悩はなくならないのかもしれない。しかしながら、何とか、この煩悩をコントロールすることはできないものだろうか。欲しい、憎い、可愛い、といった煩悩のままに動いていたら、人間は自滅してしまう。

 

だから、その煩悩をコントロールしてプラスにするところに真実の生きがいがあるのではないだろうか。

 

煩悩はなくすことはできないが、コントロールすることはできる。ここが今回のテーマです。

 

再度いいますが、煩悩はなくならない。ただ煩悩のマイナス価値をコントロールしてプラスにしていく。これには煩悩に限らず、すべて負の価値をプラスにコントロールしていくところに、人生の生きがいがあるのでしょうか。その為には、自性徹見が先決である。(自分で自分を観察しなければ駄目である。)

 

そして、その生きがいというものは、順境ではなく、むしろ逆境において得られると、松原泰道先生は説いておられる。

 

そのことを松原先生は、「百歳の禅語」で、広田弘毅さんが外務省の欧米局長の時、首相の幣原喜重郎に嫌われて人事異動でオランダ公使に飛ばされた時に、広田さんが

「風車(かざぐるま) 風が吹くまで 昼寝かな」

と、一首をよんだ事を紹介されている。

 

「風車はエンジンを持ちませんから、どんなに精巧にできていても自分で回ることはできません。風が吹かなければ回らない。

 

つまり、どんなやり手でありましても、縁というものがなければ働くことができない。

 

特にこの風車は、ご承知のようにオランダのトレードマークですから、この狂句が活きてくるわけです。オランダへ飛ばされる、オランダは風車が有名、何かやりたいことがあっても風が吹くまでどうにもしかたがない、風が吹くまで昼寝かな、と。

 

でも、広田さんは決してゴロ寝をしていたわけではないのです。その逆境の時に自分も動き、それから部下をも動かして、外交的ないろんな情報を集めて勉強するんです。そして再び中央に戻ってソ連の大使になった時に、この逆境の時の勉強が彼を大成させたわけです。

 

人間は逆境の時をどう生きるか、これが勝負ですね。その逆境の時に愚痴を言ったり不平を言ったりしていたら、人生の敗残者になる。その逆境、苦境の時に、それを縁として自分を築き上げていく。こういうような事柄が、学びとれるのです。

 

結論的に申し上げれば、逃避せず、断念することなく、じたばたせず静かに沈潜して、その環境の持つ意味と価値を見つける努力をするなら、そこに新しい人生が開けると、このようにこの言葉を理解していただきたいと思います。」

 

百歳の松原泰道先生は、百歳にして、なおも母に感謝する気持ちを忘れない生き方は、長寿国のあるべき生き方と、生きることの喜びをかみしめるお手本になると思うこのごろです。